フィリピンとセブ島の歴史。
ほとんどの日本語で書かれた記事はキリスト教を中心に捉えた歴史で、1521年にマゼランがセブ島に来たことから始まりスペイン、アメリカ、日本統治を経て独立したというところで終わってしまいます。
しかし、当然ですが1521年より前にもフィリピンの歴史はあります。その前は、イスラム教、さらにその前はインド文化の影響を受けていました。またミンダナオ島には、1900年頃まで独立したイスラム教の王国が複数存在し、19世紀まで植民地支配されていない地域もありました。
統治の歴史も正確にはスペインによる300年統治ではなく、ほとんどの期間はメキシコによる統治です。マニラはスペインとイギリスの戦争の結果、イギリスに統治されたこともあります。
この記事は、教員資格を持つセブ島生まれセブ島育ちのフィリピン人が、フィリピンの学校で使われている歴史の教科書、セブ市立図書館の蔵書、セブ博物館に行き情報を集めて執筆しています。
そのため、他の日本語で書かれているフィリピンやセブ島の歴史を紹介した記事と違う点があります。「フィリピン人が実際に歴史をどう教わっているか」「多くのフィリピン人が持っている歴史観」を基に執筆したためです。
また英語で書かれた記事を日本語に翻訳したため、読みにくい点もあるかと思いますが、最後までお読みいただければ幸いです。
フィリピンの歴史 年表
年号 | 起こったこと |
---|---|
紀元前6万5000年頃 | 当時の人骨(アジア最古)がルソン島北部で見つかる |
紀元前3000年頃 | ネグリト族の到来 |
紀元前2000年頃 | オーストロネシア族の到来 |
紀元前500年〜200年頃 | 現在の大部分を占めるフィリピン人の先祖であるマレー人(タガログ、イロカノ、パンパンガ、ビサヤ族等)の到来 |
300年頃 | インド文化の到来 |
900年頃 | ルソン島にトンド王国が建国 |
1350年頃 | イスラム教の伝来 |
1457年 | ミンダナオ島にスールー王国が建国 |
1521年 | マゼランがフィリピンに到着(キリスト教の伝来、マクタン島の戦い) |
1565年 | セブ島がメキシコ(スペインの副王領)の植民地となる |
1821年 | スペインの直接植民地となる |
1898年 | 米西戦争の後、アメリカの統治開始 |
1935年 | 独立準備政府(コモンウェルス)発足 |
1942年 | 日本軍政開始 |
1946年 | フィリピン共和国独立 |
スペイン統治以前
現在のフィリピンの地における最古の国家は、ルソン島マニラ周辺で900年頃から存在したトンド王国と言われています。
1990年に、ルソン島でラグナ銅版碑文と呼ばれる金属板が発見されました。
これは当時の裁判記録です。インドの暦であるシャカ紀元822年と書かれており、西暦だと900年にあたります。トンド王国のものと見られており、遅くとも900年には建国していたことの裏付けとなっています。
他にフィリピンで現存しているこの時代の記録や史料はほとんどありませんが、交易相手である中国などの史料からフィリピンについての記述が見つかっています。
9世紀から15世紀にかけて、フィリピンの多くの地域ではイスラム教が広まっていました。
15世紀以前は、フィリピンにはネグリト、インドネシアン、マレーという3つの部族があり、それぞれ3つの異なる民族的起源と文化がありました。これらの部族がどのようにできたのか諸説はありますが正確には分かっていません。
セブ島の人々もイスラム教を信仰しており、彼らはマレー人と呼ばれていました。漁業と貿易が盛んな島で、人々は竹で作った家に住みタトゥーを入れて、金の宝石を身につけて絹の服を着ていました。
15世紀になり、この頃から詳細な歴史が残っています。
当時、セブ島の政治形態は君主制でした。王がおり、インドにから端を発する「ラジャナート」によって統治されていました。
最初の王はスリルメイです。後にマゼランを迎え入れたセブ島の王ラジャ・フマボンの祖父にあたります。
ラジャナートの時代には、農産物、宝石、香水などさまざまな品物を物々交換する重要な交易の中心地となっていたことが明らかになっています。
島の港は「取引の場所(sinibuayng hingpit)」と呼ばれました。これが略され「Sibo」、そして後に「Cebu(セブ)」となりました。
考古学者による組織的な発掘調査により、15世紀以前の宋(960年~1270年)、元(1270-1368)、明(1368-1644)の時代から、セブ島は中国と交易していたことが明らかになっています。
事実、セブの多くの町では陶器や他の工芸品の埋葬が発掘されています。他にもマレーシア、ビルマ、日本、インド、その他のアジアと交易をしていました。
マゼランの来航とキリスト教の伝来
フェルディナンド・マゼランは1480年、ポルトガルで生まれました。地図作りと航海術を学び、熟練の水夫で勇敢な兵士です。スペインに移住するまでの数年間は、祖国ポルトガルに仕えていました。
1517年、マゼランは宮廷に自らの技術を売り込むためにスペインを訪れます。後にローマ帝国のカールV世となったスペイン王(キング・チャールズ1世)の信任を得ます。王は彼の航海を支援しました。
マゼランの探検は1519年9月20日に始ました。目的はスパイス島(現在のインドネシア)を探すことでした。当時の香辛料はとても価値が高く、高価なものだったのです。第2の目的は、アリストテレスの地球の球体説を証明することでした。
1521年3月16日夜明け、マゼランは現在のフィリピンのリマサワ島に上陸しました。現地の住民には歓迎され、マゼラン達は食べ物を与えられます。
1521年4月7日、マゼランはセブ島に到着します。セブ島の王であるラジャ・フマボンとその妻(フアナ姫)、約800人の島民に迎えられます。マゼランはサントニーニョ像をフアナ姫に贈っています。
マゼランの死はマクタン島の戦いの中で
ラジャ・フマボンは、セブの首長たちに食糧の提供、さらにキリスト教に改宗するよう命令します。ほとんどの首長はその命令に従いました。
しかしマクタン島の2人の首長のうちの1人、ダト・ラプラプが唯一反対を表明しました。マゼランの航海記録係であるアントニオ・ピガフェッタが書いた記録によれば、この反対は大きな影響力を持っていたと言います。
4月26日金曜日、マクタン島のもう1人の首長ダトゥ・ズラは息子を2頭のヤギを連れ使いに来て、「約束はすべて守るつもりだったが、ラプラプが反対しているので守れない」と言った。
アントニオ・ピガフェッタの記録
ラジャ・フマボンとダトゥ・ズラは、マゼランにマクタン島へ行きラプラプと直接話し、また力づくで服従させるよう提案します。マゼランはセブ島の王であるラジャ・フマボンとの友好関係を深める好機と考え同意します。
アントニオ・ピガフェッタの記録によると、マゼランは戦いとなる前夜にラプラプを説得を試みました。
4月28日早朝、マゼラン達60人は戦いの準備をし、マクタン島に赴きます。キリスト教に改宗した多くの兵士も助けに行きました。
夜があけて、マゼランとラプラプの激しい戦闘が始まります。迎え撃つラプラプ側は、約1500人でした。ラプラプ側の兵士たちはマゼランを執拗に狙い、マゼランはついに命を落とします。
マゼラン探検隊の残りの乗組員がいましたが、マゼランの死後、彼らの何人かはラジャ・フマボンによって毒殺されたと言います。そのため、すぐにセブ島を出発しました。
この戦いの結果、乗組員が減り、3隻の船のうち1隻は放棄します。残りの2隻「トリニダード」「ビクトリア」で 再びスパイス諸島を目指して航海を続けました。
トリニダードは、その後太平洋を東に向かって航海しましたが、疫病と悪天候でほとんどの乗組員のほとんどが死亡しました。もう一つの船ビクトリアは、1522年にスペインに帰還することができました。
当時、スペインがアメリカ大陸を植民地とし、北米、南米、アジア、オセアニアの広大な地域を支配していました。これをスペイン帝国と呼びます。この帝国の首都はメキシコで、副王が統治していました。
以後3世紀にわたり、メキシコはスペイン帝国の一部でした。現在でも、メキシコにはスペイン語を話すカトリック教徒が多く、西洋文化が広く行き渡っています。
フィリピンは、1821年までスペイン帝国であったメキシコの副王領の領土として統治されました。
マゼランの死後も続くスペインからの来航
マゼラン死後もスペイン王が派遣した遠征隊は何度かありましたが、多くは失敗に終わります。太平洋を越えてメキシコに戻る航路を発見したレガスピの遠征が、最も成功したと言うことができます。
ビリャロボスの来航(1542年)
1542年、スペイン人の探検家ルイ・ロペス・デ・ビリャロボスがフィリピンにやってきました。
後にスペイン王(フェリペ2世)となったスペイン皇太子に敬意を表して、彼らはその島を「ラス・イスラス・フェリピナス (Las Islas Felipinas)」と名付けました。これが現在のフィリピンの国名の由来です。
レガスピの来航
1565年2月、ミゲル・ロペス・デ・レガスピは4隻の船と380人の乗組員と共にセブ島にやってきました。レガスピは部下に、フィリピン人と信頼関係を結び、3つのGの目標を実行するように指示しました。
GOD(神)、GOLD(金)、GLORY(栄光)です。
2月13日、彼らはサマール島に上陸しますが、そこで部下のF・ゴメスが原住民に殺されます。彼は白人に対するフィリピン人の否定的な態度の結果として、この航海で初めて記録された犠牲者でした。
しかしなんとかその地の王と信頼関係を作り、血の盟約(Blood compact)をおこないます。
血の盟約とは、フィリピンで古く行われていた儀式です。友情の確認や条約の締結の際に互いの手首をナイフで切り、その血とワインなどを混ぜて飲みます。
その2日後、彼らはレイテ島に向かいました。この島は、マゼランが手厚く迎えられた島です。レガスピが村に到着すると、彼らはこの島の王と友情関係を結びますが、食べ物を得ることはできませんでした。2月は収穫の月ではなかったからでしょう。
レガスピは、宗教の許可を得て、豚、ジャガイモ、米、鶏を強制的に捕獲するよう部下に命じました。現地の人々は逃げ始めました。そして驚いたことに、彼らはその島が過疎化しているのに気づきます。
なぜなら、レガスピの到着前にポルトガル人の一団がその島を訪れていたため、現地の人々は怖がっていたのです。ポルトガル人はスペイン人のフリをしていたとも言われています。彼らは現地の人々を捕らえ、暴行し、略奪しましたた。
その後、レガスピはボホールに渡り、島の王ダトゥ・シカトゥナと友好関係を結び、1625年3月16日に血の盟約を行いました。
セブ島にレガスピが来航
1565年4月27日、マゼランの四十四回忌です。フレイ・ウルダネータ(司祭)と仲間は、彼らの平和の使命を説明するために三度上陸しました。しかしセブ島の住民たちは、スペイン人のレガスピ達スペイン人に逆らいました。
「いいかげんにしろ!」。しかし、レガスピの砲弾の音を聞いて、セブ島の住民たちは途方に暮れました。生まれて初めて聞く砲弾の音でした。
フィリピンの島の中から、セブ島が最初の植民地として選ばれました。
レガスピは、安全と植民地を確保するため、三角形の要塞 「サンペドロ要塞」 をセブに建設しました。
1565年4月から6月にかけて、最初のフィリピン総督は、抵抗する先住民との和解に力を注ぎました。
レガスピは兵士たちに厳しい規律を課しました。先住民を虐待した兵士を罰し、レガスピは原住民たちから信頼と信頼を得増した。
1565年6月4日、ついにトゥパス王は新国王と条約を結びました。これはスペイン政府とフィリピン人との間の一連の条約として記録された最初のものであります。
レガスピはフィリピン人を敵から守り、フィリピン人と公正かつ対等な貿易を行うと約束しますが、彼らの力は先住民の人々の積極的な抵抗に直面しました。
この時、セブ島では危機的な食糧不足があり、先住民による奇襲攻撃が続きました。
1569年、セブの食糧不足のためレガスピはパナイ島に移動しました。その後、2つ目の入植地を建設し、カピスと名付け、現在はパナイ川の岸に位置するカピス州ロハス市としました。
パナイを本拠地として、レガスピはスペイン支配を諸島に拡大することにしました。
1570年には、1567年にメキシコからやってきた孫のフアン・デ・サルセードをミンドロに送り、パナイを略奪していたイスラム教徒のモロの海賊を処罰しました。
レガスピはビサヤの他の島に部隊を送り、それらの島を占領することに成功します。サルセードがパナイに戻ったとき、彼はマニラがイスラム王国として繁栄していると祖父に報告しました。
そして、レガスピはマニラにも遠征隊を送りました。
当時マニラはラジャ・スレイマンが統治していました。スペイン人はスレイマンに敬意を払うよう要求しますが、イスラム教の支配者は拒否しました。
1570年5月24日、レガスピの部下であるマーティン・デ・ゴティは、マニラに向けて大砲を撃ちます。
マニラの始まり
1571年4月20日、レガスピはパナイ港を出港し、マニラに向かいました。
彼は新しい都市の基礎作りを始めました。マニラは廃墟と化していたので、新しい家を建てるよう部下に命じました。そして、教会も建てられました。
1571年6月24日、レガスピはマニラをフィリピンの首都にしました。彼は市政府を統治するために何人かの指導者を任命しました。ルソン北部にも遠征を重ね、入植地が広がりました。
マニラがフィリピンの首都としてなったことことで、東洋におけるスペイン帝国の基礎が築かれたと言われています。
1572年、レガスピは部下を叱責した後に脳卒中で死亡しています。
レガスピは、特にフィリピン南部のミンダナオ地域では、フィリピン系イスラム教徒の抵抗を理由にうまく占領できませんでした。
この後、一部の総督はミンダナオに出兵してキリスト教徒に改宗させようと試みましたが、いずれも失敗に終わっています。
これが今日でも、ミンダナオ島にはイスラム教徒のフィリピン人が多いことにつながっています。
統治時代の始まり
1565年から1898年12月10日のパリ条約までの333年間、フィリピンはスペインの植民地でした。
その中には、イギリスがマニラとカビテ港を支配していた時期もあります。
フィリピンの植民地化は他の国に比べて、比較的容易だったと言われています。
その理由として、フィリピンのバランガイ制度が指摘されています。バランガイは現在のフィリピン全土でも見られる行政区分で、当時は今以上にバランガイの意識が強く、国としての意識は希薄でした。
そのため、フィリピン人が共同して反抗するようなことはあまり見られず、フィリピンの植民地化はイスラム教が強いミンダナオ島を除いて比較的スムーズに行われました。
スペインによる植民地化とともに、大多数のフィリピン人はローマ・カトリックに改宗しました。
スペイン統治時代のフィリピンの社会
教育
植民地からの独立という考えを持たせないため、植民地時代当初はフィリピン人に対して熱心な教育は行われませんでした。しかし、19世紀後半、初等・中等教育はフィリピンの学齢期の子どもたちに開かれました。
生徒たちは、科学やその他の重要な科目を教えられず、神学、哲学、スペイン語、算術を教えられました。現在でもタガログ語やビサヤ語では、多くのスペイン語が使われています。
しかし、裕福なフィリピン人の半分は法律、化学者、医師、薬剤師などを学ぶ機会を与えられました。
フィリピン人の名前
もともとフィリピン人には姓がありませんでした。人の名前は、その人の外見、または自然の出来事や物体から取られていたのです。
例えば、もし女の子が美しかったら、その名前は「美しい」です。
スペイン統治時代が始まり、フィリピン人の名前を少し変えましたが、名前を変えなかった人もいました。多くの人が同じ名前を持ち、これはスペイン当局を混乱させました。
この混乱に終止符を打つべく、ナルシソ・クラヴェリア総督は1849年フィリピン人に改名を認める法令を出しました。
フィリピン人が選べるように、スペイン語の名前の非常に長いリストが用意されました。だから、今でも多くのフィリピン人がスペイン語の名前と名字を持っています。
宗教
スペイン人はローマ・カトリックをフィリピン人に紹介し、多くのフィリピン人はそれを受け入れました。イスラム教からの改宗です。
今でもローマ・カトリックはフィリピンの多数派であります。
娯楽
スペイン統治時代、フィリピン人の主な娯楽は闘鶏でした。今でも存在する有名なフィリピンのギャンブルです。
闘鶏はスペインの植民地化以前にも存在していたと言われており、当時の外国人旅行者の証言もあります。
コックピットと呼ばれるリングに入れられた二羽の雄鶏が、足に金属の刃をつけて互いに殺し合い、そのうちの一羽が生き延びて勝つというものです。
強制労働
当時、最も嫌われていたのは強制労働です。16―60歳のフィリピン人男性は、40日間、または15日間の強制労働を強いられました。
教会、道路、公共建築物、ガレオン船(フィリピンから他国へ商品を貿易するのに用いられる船)を建造しました。
ガレオン貿易
フィリピンが東西貿易の拠点となる可能性を秘めていることを知り、中国とメキシコの自由港となりました。中国、日本、アラビア、ペルシャ、メキシコなどの国々と、ガレオン貿易を用いた交易が盛んでした。
メキシコから採掘された銀を、中国産の絹やインドネシア産の香辛料、インド産の宝石など当時ヨーロッパにとって貴重であった品物と交換しました。
航路は中南米とアジア太平洋の間に重要な商業上のつながりを形成し、スペイン帝国に多額の資金を提供しながら、ハバナ・ガレオンを経由してヨーロッパにまで商品が持ち込まれました。
16~17世紀のメキシコ(スペイン)統治
16世紀、マニラに修道士や宣教師のために聖堂が建てられました。
マニラ駐屯地は約400人のスペイン兵で構成され、イントラムロス(現在マニラにある歴史的な場所)とその周辺には当初1,200人のスペイン人家族が定住しました。
ビサヤでは、メキシコから合計2,100人の兵士が入植し、この時期にはすでに日本人と中国人の移民商人者もいました。
またスペイン人は、ラテンアメリカからトウモロコシ、パイナップル、チョコレートなどの新しい食料資源とともに、法典、洋書、グレゴリオ暦などの西洋文明の要素を取り入れました。
18世紀のメキシコ(スペイン)統治
フィリピンはスペイン支配下で植民地として利益を上げることができませんでした。
17世紀には西洋から来たオランダ人との長期にわたる戦争と、南部のイスラム教徒との断続的な紛争、および北からの倭寇との戦いにより植民地の財政は破綻寸前にまで追い込まれました。
また戦争状態が恒常化し、フィリピンに駐留していたメキシコやペルーから派遣された兵士が大量に死亡したり脱走したりしました。
度重なる戦争、賃金不足、そして飢餓に近い状態があまりにも深刻で、ラテンアメリカから送られてきた兵士の半数近くが死亡するか地方に逃れて、反乱した先住民の間に紛れて放浪者として暮らす事態も起きます。
こうした状況が、フィリピン統治の困難さを増大させました。
マニラ財政はスペイン国王シャルル三世に書簡を送り、植民地の放棄を勧告しますが、宗教界はフィリピンを極東への重要地点とみなしてこれに反対しました。
フィリピンは、スペイン政府からの毎年の補助金で生き残り、しばしばニュースペイン副王領(メキシコ)から得た税金と利益でなんとか持ち堪えます。
そしてマニラの200年に及ぶ要塞は、最初にスペインの初期入植者によって建設されて以来、あまり改善されていませんでした。これが1762年から1764年にかけてイギリスがマニラを短期間占領した背景の一つになります。
イギリスによるマニラ占領(1762年から1764年)
1762年1月4日、イギリスはスペインとの戦争を宣言しました。
1762年9月24日、英国海軍の東インド艦隊の艦船と兵士に支援された、英国陸軍と英国東インド会社兵士の部隊が、インドのマドラスからマニラ湾に入りました。
その結果、マニラは1762年10月4日に包囲され、イギリスに陥落しました。
マニラのイギリスによる占領は、1762年から1764年の間続きます。
マニラの外では、スペインの指導者シモン・デ・アンダ・イ・サラザールが、イギリスによる支配に抵抗するためパンパンガを中心とする1万人の民兵を組織しました。
アンダ・イ・サラザールは最初にブラカンに本部を置き、次にバコールに本部を置きました。
イギリスによるマニラの占領は、七年戦争の欧州和平交渉で合意した通り、1764年4月に終了しました。
スペイン人はその後、イギリスを支援する役割を担っているとしてビノンドの中国人コミュニティを迫害しました。マニラには今でもその建築物が残っています。
1781年、ホセ・バスコ・イ・バルガス総督は 「フレンズ・オブ・ザ・カントリー」 経済協会を設立しました。
1821年にメキシコがスペインから独立するまで、フィリピンはニュースペインの副王領から統治され、同年からはフィリピンのスペインによる直接統治が始まりました。
19世紀のスペイン統治
19世紀、スペインは教育とインフラに多額の投資をします。
スペインのイザベラ女王は、1863年12月20日の教育令で、スペイン語を授業の言語とする無料の公立学校制度の創設を定めました。
1869年、スエズ運河の開通したことにより、大きな変革が生まれました。航海期間は大幅に短縮され、ごく一部ですが、富裕層のフィリピン人がスペインや欧米の大学に留学をするようになりました。
それ以前の航海は、期間が非常に長く危険なもので敬遠されていたのです。
留学をした人から、イルストラドスと言われる人々が生まれます。後に出てくるフィリピンの英雄ホセ・リサールもその1人です。
また運河の開通により、ヨーロッパの書籍がフィリピンへより容易に送れることになりました。ヨーロッパにおける民主主義、自由の在り方をフィリピン人が知ることとなります。
また、進歩的な書籍や定期刊行物のフィリピンへの送付が容易かつ安価になったことも、スペイン・フィリピン間の距離が縮まった一因でした。