フィリピンとセブ島の歴史(年表付き)

フィリピンセブ島の歴史(年表付き)

フィリピンとセブ島の歴史。

ほとんどの日本語で書かれた記事はキリスト教を中心に捉えた歴史で、1521年にマゼランがセブ島に来たことから始まりスペイン、アメリカ、日本統治を経て独立したというところで終わってしまいます。

しかし、当然ですが1521年より前にもフィリピンの歴史はあります。その前は、イスラム教、さらにその前はインド文化の影響を受けていました。またミンダナオ島には、1900年頃まで独立したイスラム教の王国が複数存在し、19世紀まで植民地支配されていない地域もありました。

統治の歴史も正確にはスペインによる300年統治ではなく、ほとんどの期間はメキシコによる統治です。マニラはスペインとイギリスの戦争の結果、イギリスに統治されたこともあります。

この記事は、教員資格を持つセブ島生まれセブ島育ちのフィリピン人が、フィリピンの学校で使われている歴史の教科書、セブ市立図書館の蔵書、セブ博物館に行き情報を集めて執筆しています。

そのため、他の日本語で書かれているフィリピンやセブ島の歴史を紹介した記事と違う点があります。「フィリピン人が実際に歴史をどう教わっているか」「多くのフィリピン人が持っている歴史観」を基に執筆したためです。

また英語で書かれた記事を日本語に翻訳したため、読みにくい点もあるかと思いますが、最後までお読みいただければ幸いです。

目次

フィリピンの歴史 年表

年号起こったこと
紀元前6万5000年頃当時の人骨(アジア最古)がルソン島北部で見つかる
紀元前3000年頃ネグリト族の到来
紀元前2000年頃オーストロネシア族の到来
紀元前500年〜200年頃現在の大部分を占めるフィリピン人の先祖であるマレー人(タガログ、イロカノ、パンパンガ、ビサヤ族等)の到来
300年頃インド文化の到来
900年頃ルソン島にトンド王国が建国
1350年頃イスラム教の伝来
1457年ミンダナオ島にスールー王国が建国
1521年マゼランがフィリピンに到着(キリスト教の伝来、マクタン島の戦い)
1565年セブ島がメキシコ(スペインの副王領)の植民地となる
1821年スペインの直接植民地となる
1898年米西戦争の後、アメリカの統治開始
1935年独立準備政府(コモンウェルス)発足
1942年日本軍政開始
1946年フィリピン共和国独立

スペイン統治以前

現在のフィリピンの地における最古の国家は、ルソン島マニラ周辺で900年頃から存在したトンド王国と言われています。

ラグナ銅版碑文
ラグナ銅版碑文

1990年に、ルソン島でラグナ銅版碑文と呼ばれる金属板が発見されました。

これは当時の裁判記録です。インドの暦であるシャカ紀元822年と書かれており、西暦だと900年にあたります。トンド王国のものと見られており、遅くとも900年には建国していたことの裏付けとなっています。

他にフィリピンで現存しているこの時代の記録や史料はほとんどありませんが、交易相手である中国などの史料からフィリピンについての記述が見つかっています。

9世紀から15世紀にかけて、フィリピンの多くの地域ではイスラム教が広まっていました。

15世紀以前は、フィリピンにはネグリト、インドネシアン、マレーという3つの部族があり、それぞれ3つの異なる民族的起源と文化がありました。これらの部族がどのようにできたのか諸説はありますが正確には分かっていません。

セブ島の人々もイスラム教を信仰しており、彼らはマレー人と呼ばれていました。漁業と貿易が盛んな島で、人々は竹で作った家に住みタトゥーを入れて、金の宝石を身につけて絹の服を着ていました。

15世紀になり、この頃から詳細な歴史が残っています。

当時、セブ島の政治形態は君主制でした。王がおり、インドにから端を発する「ラジャナート」によって統治されていました。

最初の王はスリルメイです。後にマゼランを迎え入れたセブ島の王ラジャ・フマボンの祖父にあたります。

ラジャナートの時代には、農産物、宝石、香水などさまざまな品物を物々交換する重要な交易の中心地となっていたことが明らかになっています。

島の港は「取引の場所(sinibuayng hingpit)」と呼ばれました。これが略され「Sibo」、そして後に「Cebu(セブ)」となりました。

考古学者による組織的な発掘調査により、15世紀以前の宋(960年~1270年)、元(1270-1368)、明(1368-1644)の時代から、セブ島は中国と交易していたことが明らかになっています。

事実、セブの多くの町では陶器や他の工芸品の埋葬が発掘されています。他にもマレーシア、ビルマ、日本、インド、その他のアジアと交易をしていました。

マゼランの来航とキリスト教の伝来

キリスト教の伝来

フェルディナンド・マゼランは1480年、ポルトガルで生まれました。地図作りと航海術を学び、熟練の水夫で勇敢な兵士です。スペインに移住するまでの数年間は、祖国ポルトガルに仕えていました。

1517年、マゼランは宮廷に自らの技術を売り込むためにスペインを訪れます。後にローマ帝国のカールV世となったスペイン王(キング・チャールズ1世)の信任を得ます。王は彼の航海を支援しました。

マゼランの探検は1519年9月20日に始ました。目的はスパイス島(現在のインドネシア)を探すことでした。当時の香辛料はとても価値が高く、高価なものだったのです。第2の目的は、アリストテレスの地球の球体説を証明することでした。

1521年3月16日夜明け、マゼランは現在のフィリピンのリマサワ島に上陸しました。現地の住民には歓迎され、マゼラン達は食べ物を与えられます。

1521年4月7日、マゼランはセブ島に到着します。セブ島の王であるラジャ・フマボンとその妻(フアナ姫)、約800人の島民に迎えられます。マゼランはサントニーニョ像をフアナ姫に贈っています。

マゼランの死はマクタン島の戦いの中で

初のキリスト教のミサ

ラジャ・フマボンは、セブの首長たちに食糧の提供、さらにキリスト教に改宗するよう命令します。ほとんどの首長はその命令に従いました。

しかしマクタン島の2人の首長のうちの1人、ダト・ラプラプが唯一反対を表明しました。マゼランの航海記録係であるアントニオ・ピガフェッタが書いた記録によれば、この反対は大きな影響力を持っていたと言います。

4月26日金曜日、マクタン島のもう1人の首長ダトゥ・ズラは息子を2頭のヤギを連れ使いに来て、「約束はすべて守るつもりだったが、ラプラプが反対しているので守れない」と言った。

アントニオ・ピガフェッタの記録

ラジャ・フマボンとダトゥ・ズラは、マゼランにマクタン島へ行きラプラプと直接話し、また力づくで服従させるよう提案します。マゼランはセブ島の王であるラジャ・フマボンとの友好関係を深める好機と考え同意します。

アントニオ・ピガフェッタの記録によると、マゼランは戦いとなる前夜にラプラプを説得を試みました。

4月28日早朝、マゼラン達60人は戦いの準備をし、マクタン島に赴きます。キリスト教に改宗した多くの兵士も助けに行きました。

マクタン島の戦い

夜があけて、マゼランとラプラプの激しい戦闘が始まります。迎え撃つラプラプ側は、約1500人でした。ラプラプ側の兵士たちはマゼランを執拗に狙い、マゼランはついに命を落とします。

マゼラン探検隊の残りの乗組員がいましたが、マゼランの死後、彼らの何人かはラジャ・フマボンによって毒殺されたと言います。そのため、すぐにセブ島を出発しました。

この戦いの結果、乗組員が減り、3隻の船のうち1隻は放棄します。残りの2隻「トリニダード」「ビクトリア」で 再びスパイス諸島を目指して航海を続けました。

トリニダードは、その後太平洋を東に向かって航海しましたが、疫病と悪天候でほとんどの乗組員のほとんどが死亡しました。もう一つの船ビクトリアは、1522年にスペインに帰還することができました。

当時、スペインがアメリカ大陸を植民地とし、北米、南米、アジア、オセアニアの広大な地域を支配していました。これをスペイン帝国と呼びます。この帝国の首都はメキシコで、副王が統治していました。

以後3世紀にわたり、メキシコはスペイン帝国の一部でした。現在でも、メキシコにはスペイン語を話すカトリック教徒が多く、西洋文化が広く行き渡っています。

フィリピンは、1821年までスペイン帝国であったメキシコの副王領の領土として統治されました。

マゼランの死後も続くスペインからの来航

マゼラン死後もスペイン王が派遣した遠征隊は何度かありましたが、多くは失敗に終わります。太平洋を越えてメキシコに戻る航路を発見したレガスピの遠征が、最も成功したと言うことができます。

ビリャロボスの来航(1542年)

1542年、スペイン人の探検家ルイ・ロペス・デ・ビリャロボスがフィリピンにやってきました。

後にスペイン王(フェリペ2世)となったスペイン皇太子に敬意を表して、彼らはその島を「ラス・イスラス・フェリピナス (Las Islas Felipinas)」と名付けました。これが現在のフィリピンの国名の由来です。

レガスピの来航

1565年2月、ミゲル・ロペス・デ・レガスピは4隻の船と380人の乗組員と共にセブ島にやってきました。レガスピは部下に、フィリピン人と信頼関係を結び、3つのGの目標を実行するように指示しました。

GOD(神)、GOLD(金)、GLORY(栄光)です。

2月13日、彼らはサマール島に上陸しますが、そこで部下のF・ゴメスが原住民に殺されます。彼は白人に対するフィリピン人の否定的な態度の結果として、この航海で初めて記録された犠牲者でした。

レガスピの血の盟約

しかしなんとかその地の王と信頼関係を作り、血の盟約(Blood compact)をおこないます。

血の盟約とは、フィリピンで古く行われていた儀式です。友情の確認や条約の締結の際に互いの手首をナイフで切り、その血とワインなどを混ぜて飲みます。

その2日後、彼らはレイテ島に向かいました。この島は、マゼランが手厚く迎えられた島です。レガスピが村に到着すると、彼らはこの島の王と友情関係を結びますが、食べ物を得ることはできませんでした。2月は収穫の月ではなかったからでしょう。

レガスピは、宗教の許可を得て、豚、ジャガイモ、米、鶏を強制的に捕獲するよう部下に命じました。現地の人々は逃げ始めました。そして驚いたことに、彼らはその島が過疎化しているのに気づきます。

なぜなら、レガスピの到着前にポルトガル人の一団がその島を訪れていたため、現地の人々は怖がっていたのです。ポルトガル人はスペイン人のフリをしていたとも言われています。彼らは現地の人々を捕らえ、暴行し、略奪しましたた。

その後、レガスピはボホールに渡り、島の王ダトゥ・シカトゥナと友好関係を結び、1625年3月16日に血の盟約を行いました。

セブ島にレガスピが来航

1565年4月27日、マゼランの四十四回忌です。フレイ・ウルダネータ(司祭)と仲間は、彼らの平和の使命を説明するために三度上陸しました。しかしセブ島の住民たちは、スペイン人のレガスピ達スペイン人に逆らいました。

「いいかげんにしろ!」。しかし、レガスピの砲弾の音を聞いて、セブ島の住民たちは途方に暮れました。生まれて初めて聞く砲弾の音でした。

フィリピンの島の中から、セブ島が最初の植民地として選ばれました。

サンペドロ要塞
現存するサンペドロ要塞

レガスピは、安全と植民地を確保するため、三角形の要塞 「サンペドロ要塞」 をセブに建設しました。

1565年4月から6月にかけて、最初のフィリピン総督は、抵抗する先住民との和解に力を注ぎました。

レガスピは兵士たちに厳しい規律を課しました。先住民を虐待した兵士を罰し、レガスピは原住民たちから信頼と信頼を得増した。

1565年6月4日、ついにトゥパス王は新国王と条約を結びました。これはスペイン政府とフィリピン人との間の一連の条約として記録された最初のものであります。

レガスピはフィリピン人を敵から守り、フィリピン人と公正かつ対等な貿易を行うと約束しますが、彼らの力は先住民の人々の積極的な抵抗に直面しました。

この時、セブ島では危機的な食糧不足があり、先住民による奇襲攻撃が続きました。

1569年、セブの食糧不足のためレガスピはパナイ島に移動しました。その後、2つ目の入植地を建設し、カピスと名付け、現在はパナイ川の岸に位置するカピス州ロハス市としました。

パナイを本拠地として、レガスピはスペイン支配を諸島に拡大することにしました。

1570年には、1567年にメキシコからやってきた孫のフアン・デ・サルセードをミンドロに送り、パナイを略奪していたイスラム教徒のモロの海賊を処罰しました。

レガスピはビサヤの他の島に部隊を送り、それらの島を占領することに成功します。サルセードがパナイに戻ったとき、彼はマニラがイスラム王国として繁栄していると祖父に報告しました。

そして、レガスピはマニラにも遠征隊を送りました。

当時マニラはラジャ・スレイマンが統治していました。スペイン人はスレイマンに敬意を払うよう要求しますが、イスラム教の支配者は拒否しました。

1570年5月24日、レガスピの部下であるマーティン・デ・ゴティは、マニラに向けて大砲を撃ちます。

マニラの始まり

1571年4月20日、レガスピはパナイ港を出港し、マニラに向かいました。

彼は新しい都市の基礎作りを始めました。マニラは廃墟と化していたので、新しい家を建てるよう部下に命じました。そして、教会も建てられました。

1571年6月24日、レガスピはマニラをフィリピンの首都にしました。彼は市政府を統治するために何人かの指導者を任命しました。ルソン北部にも遠征を重ね、入植地が広がりました。

マニラがフィリピンの首都としてなったことことで、東洋におけるスペイン帝国の基礎が築かれたと言われています。

1572年、レガスピは部下を叱責した後に脳卒中で死亡しています。

レガスピは、特にフィリピン南部のミンダナオ地域では、フィリピン系イスラム教徒の抵抗を理由にうまく占領できませんでした。

この後、一部の総督はミンダナオに出兵してキリスト教徒に改宗させようと試みましたが、いずれも失敗に終わっています。

これが今日でも、ミンダナオ島にはイスラム教徒のフィリピン人が多いことにつながっています。

統治時代の始まり

1565年から1898年12月10日のパリ条約までの333年間、フィリピンはスペインの植民地でした。

その中には、イギリスがマニラとカビテ港を支配していた時期もあります。

フィリピンの植民地化は他の国に比べて、比較的容易だったと言われています。

その理由として、フィリピンのバランガイ制度が指摘されています。バランガイは現在のフィリピン全土でも見られる行政区分で、当時は今以上にバランガイの意識が強く、国としての意識は希薄でした。

そのため、フィリピン人が共同して反抗するようなことはあまり見られず、フィリピンの植民地化はイスラム教が強いミンダナオ島を除いて比較的スムーズに行われました。

スペインによる植民地化とともに、大多数のフィリピン人はローマ・カトリックに改宗しました。

スペイン統治時代のフィリピンの社会

教育

植民地からの独立という考えを持たせないため、植民地時代当初はフィリピン人に対して熱心な教育は行われませんでした。しかし、19世紀後半、初等・中等教育はフィリピンの学齢期の子どもたちに開かれました。

生徒たちは、科学やその他の重要な科目を教えられず、神学、哲学、スペイン語、算術を教えられました。現在でもタガログ語やビサヤ語では、多くのスペイン語が使われています。

しかし、裕福なフィリピン人の半分は法律、化学者、医師、薬剤師などを学ぶ機会を与えられました。

フィリピン人の名前

もともとフィリピン人には姓がありませんでした。人の名前は、その人の外見、または自然の出来事や物体から取られていたのです。

例えば、もし女の子が美しかったら、その名前は「美しい」です。

スペイン統治時代が始まり、フィリピン人の名前を少し変えましたが、名前を変えなかった人もいました。多くの人が同じ名前を持ち、これはスペイン当局を混乱させました。

この混乱に終止符を打つべく、ナルシソ・クラヴェリア総督は1849年フィリピン人に改名を認める法令を出しました。

フィリピン人が選べるように、スペイン語の名前の非常に長いリストが用意されました。だから、今でも多くのフィリピン人がスペイン語の名前と名字を持っています。

宗教

スペイン人はローマ・カトリックをフィリピン人に紹介し、多くのフィリピン人はそれを受け入れました。イスラム教からの改宗です。

今でもローマ・カトリックはフィリピンの多数派であります。

娯楽

スペイン統治時代、フィリピン人の主な娯楽は闘鶏でした。今でも存在する有名なフィリピンのギャンブルです。

闘鶏はスペインの植民地化以前にも存在していたと言われており、当時の外国人旅行者の証言もあります。

コックピットと呼ばれるリングに入れられた二羽の雄鶏が、足に金属の刃をつけて互いに殺し合い、そのうちの一羽が生き延びて勝つというものです。

強制労働

当時、最も嫌われていたのは強制労働です。16―60歳のフィリピン人男性は、40日間、または15日間の強制労働を強いられました。

教会、道路、公共建築物、ガレオン船(フィリピンから他国へ商品を貿易するのに用いられる船)を建造しました。

ガレオン貿易

フィリピンが東西貿易の拠点となる可能性を秘めていることを知り、中国とメキシコの自由港となりました。中国、日本、アラビア、ペルシャ、メキシコなどの国々と、ガレオン貿易を用いた交易が盛んでした。

メキシコから採掘された銀を、中国産の絹やインドネシア産の香辛料、インド産の宝石など当時ヨーロッパにとって貴重であった品物と交換しました。

航路は中南米とアジア太平洋の間に重要な商業上のつながりを形成し、スペイン帝国に多額の資金を提供しながら、ハバナ・ガレオンを経由してヨーロッパにまで商品が持ち込まれました。

16~17世紀のメキシコ(スペイン)統治

16世紀、マニラに修道士や宣教師のために聖堂が建てられました。

マニラ駐屯地は約400人のスペイン兵で構成され、イントラムロス(現在マニラにある歴史的な場所)とその周辺には当初1,200人のスペイン人家族が定住しました。

ビサヤでは、メキシコから合計2,100人の兵士が入植し、この時期にはすでに日本人と中国人の移民商人者もいました。

またスペイン人は、ラテンアメリカからトウモロコシ、パイナップル、チョコレートなどの新しい食料資源とともに、法典、洋書、グレゴリオ暦などの西洋文明の要素を取り入れました。

18世紀のメキシコ(スペイン)統治

フィリピンはスペイン支配下で植民地として利益を上げることができませんでした。

17世紀には西洋から来たオランダ人との長期にわたる戦争と、南部のイスラム教徒との断続的な紛争、および北からの倭寇との戦いにより植民地の財政は破綻寸前にまで追い込まれました。

また戦争状態が恒常化し、フィリピンに駐留していたメキシコやペルーから派遣された兵士が大量に死亡したり脱走したりしました。

度重なる戦争、賃金不足、そして飢餓に近い状態があまりにも深刻で、ラテンアメリカから送られてきた兵士の半数近くが死亡するか地方に逃れて、反乱した先住民の間に紛れて放浪者として暮らす事態も起きます。

こうした状況が、フィリピン統治の困難さを増大させました。

マニラ財政はスペイン国王シャルル三世に書簡を送り、植民地の放棄を勧告しますが、宗教界はフィリピンを極東への重要地点とみなしてこれに反対しました。

フィリピンは、スペイン政府からの毎年の補助金で生き残り、しばしばニュースペイン副王領(メキシコ)から得た税金と利益でなんとか持ち堪えます。

そしてマニラの200年に及ぶ要塞は、最初にスペインの初期入植者によって建設されて以来、あまり改善されていませんでした。これが1762年から1764年にかけてイギリスがマニラを短期間占領した背景の一つになります。

イギリスによるマニラ占領(1762年から1764年)

1762年1月4日、イギリスはスペインとの戦争を宣言しました。

1762年9月24日、英国海軍の東インド艦隊の艦船と兵士に支援された、英国陸軍と英国東インド会社兵士の部隊が、インドのマドラスからマニラ湾に入りました。

その結果、マニラは1762年10月4日に包囲され、イギリスに陥落しました。

マニラのイギリスによる占領は、1762年から1764年の間続きます。

マニラの外では、スペインの指導者シモン・デ・アンダ・イ・サラザールが、イギリスによる支配に抵抗するためパンパンガを中心とする1万人の民兵を組織しました。

アンダ・イ・サラザールは最初にブラカンに本部を置き、次にバコールに本部を置きました。

イギリスによるマニラの占領は、七年戦争の欧州和平交渉で合意した通り、1764年4月に終了しました。

スペイン人はその後、イギリスを支援する役割を担っているとしてビノンドの中国人コミュニティを迫害しました。マニラには今でもその建築物が残っています。

1781年、ホセ・バスコ・イ・バルガス総督は 「フレンズ・オブ・ザ・カントリー」 経済協会を設立しました。

1821年にメキシコがスペインから独立するまで、フィリピンはニュースペインの副王領から統治され、同年からはフィリピンのスペインによる直接統治が始まりました。

19世紀のスペイン統治

19世紀、スペインは教育とインフラに多額の投資をします。

スペインのイザベラ女王は、1863年12月20日の教育令で、スペイン語を授業の言語とする無料の公立学校制度の創設を定めました。

1869年、スエズ運河の開通したことにより、大きな変革が生まれました。航海期間は大幅に短縮され、ごく一部ですが、富裕層のフィリピン人がスペインや欧米の大学に留学をするようになりました。

それ以前の航海は、期間が非常に長く危険なもので敬遠されていたのです。

留学をした人から、イルストラドスと言われる人々が生まれます。後に出てくるフィリピンの英雄ホセ・リサールもその1人です。

また運河の開通により、ヨーロッパの書籍がフィリピンへより容易に送れることになりました。ヨーロッパにおける民主主義、自由の在り方をフィリピン人が知ることとなります。

また、進歩的な書籍や定期刊行物のフィリピンへの送付が容易かつ安価になったことも、スペイン・フィリピン間の距離が縮まった一因でした。

フィリピン国家の始まりとフィリピン革命

ホセ・リサールによる独立運動

1872年、罪のない3人のフィリピン人司祭マリアーノ・ゴメス、ホセ・ブルゴス、そしてゴンブルサとして知られるジャシント・サモラが植民地当局により扇動の罪に問われ、ガロテによって処刑されたことで革命的な感傷が生じました。

独立運動が最も活動が活発だった時期は、1880年から1895年の間でした。

ホセ・リサールは、この時代における最も優れた知的で急進的な人物です。1861年6月19日、ラグーナのカルランバで生まれ、フィリピンの名門大学で学び、その後ヨーロッパに渡って医学を続けました。

彼は若い頃、スペイン人がフィリピン人をいかに虐待していたかを観察し、フィリピン人に対してあらゆる不正が行われ、彼の若い心と心が彼らに反逆しているのを見ました。

彼は、国の自由のために働くと誓ったのです。

1882年、スペインに渡り医学の他、フランス語・ドイツ語などを学びました。

そして、26歳で「ノリ・ミー・タンジェール」という小説を書きました。フィリピンにおけるスペイン政権の欠陥を暴いたのです。彼は政治思想を物語の形で表現しました。この本は独立運動に大きな刺激を与えました。

彼がフィリピンの民間および教会当局も非難したため、彼らは彼を憎み、逮捕のため動きました。

1892年7月7日、新聞各紙は前日の夜にリサールが逮捕され、ダピタン(ミンダナオ)に追放するよう命じられたと報じました。

その夜、愛国的なフィリピン人の小グループがマニラのアズカラガ通りの家で出会い、秘密結社を設立することを決めました。

スペインによる支配を打倒し、フィリピンでの独立を確保することを目的とした秘密結社「カティプナン」です。

結社は密かにフィリピン全土から会員を募り、ビサヤ諸島を越え、南のミンダナオまで広がりました。八月革命前夜の会員数は2万―3万人と推定されていたが、戦争のための武器や弾薬を買う余裕はありませんでした。

ボニファシオは、日本に援助を求めました。日本の経済発展と世界の大国への成長は、ボニファシオとその指導者たちにとって驚くべきものだったのです。

彼らは万一の事態に備えて身を固めていたので、勝利を保証するための日本の武器や援助を望んでいました。それは1896年、日本の巡洋艦がマニラ湾に錨を下ろした時に起こりました。

ホセ・ノリタリオ・タガワは、ボニファシオと巡洋艦の司令官であった神村海軍大将との間の連絡を取り持りました。

彼らは日本の天皇に手紙を用意し、フィリピン人の独立心を表明しました。正式におじぎをした提督は、カティプナンの存在を知って喜んでいると答えましたが、助けの要請は提督の権限を超えているので拒否されました。

1896年12月30日に始まったフィリピン革命では、リサールは革命関与したとされ1896年に反逆罪で処刑されました。

バグンバヤン(現在のリサール公園)で多数のフィリピン人の前で射殺されました。

その後、いくつかの誤解と思想の違いのため、カビテのカティプナンは、マリアノ・アルバレス(ボニファシオの親戚)が率いるマグディワンと、エミリオ・アギナルドが率いるマグダロの二つのグループに分かれました。

ボニファシオとアギナルドの対立

ボニファシオとアギナルドの間の指導者の対立は、アギナルドの兵士によるボニファシオの暗殺により終わりました。

アギナルドはビアクナバト条約による休戦に同意し、彼の仲間の革命家たちは香港に追放されました。

ただ、すべての将軍たちが合意に従ったわけではありませんでした。その一人、フランシスコ・マカブロス将軍は、よりふさわしい中央執行委員会が作られるまで、暫定政府として機能する中央執行委員会を設立しました。

スペインが統治するフィリピンのほぼすべての州で武力紛争が再発しました。

1898年、フィリピンで紛争が続く中、キューバ革命における自国民の安全を懸念してキューバに送られていた米駆逐艦メインはハバナ港で爆発し沈没しました。この出来事が米西戦争を引き起こしました。

マニラ湾ので戦いは一方的でした。より武装をしたアメリカの船は、スペインの船を圧倒しました。スペイン軍はカビテに白旗を掲げて降伏の合図をしました。

アメリカは、フィリピン人がスペインの植民地に反旗を翻させることを期待して、アギナルドをフィリピンに呼び寄せます。

1898年5月19日、アメリカの招きでアギナルドはフィリピンに到着しました。

フィリピン独立宣言

1898年6月12日、アギナルドはカビテのカウィトでフィリピンの独立を宣言しました。現在でも、6月12日はフィリピンの独立記念日で祝日です。

さらに6月23日には、フィリピン革命政府を宣言し、米陸軍が到着するまでに内陸都市イントラムロスのスペインの州都を除く、ルソン島全域をフィリピン人が掌握していました。

1898年8月13日、マニラの戦いでアメリカはスペイン人からその都市を占領しました。この戦いは「マニラの模擬戦」とも呼ばれ、まるでドラマのようでした。

スペイン軍はすでに弱体化していましたが、面目を失わずに降伏することはできませんでした。

そこでスペインの総督(フィリピンのスペイン政府高官)はアメリカの指導者たちと秘密裏に協定を結び、模擬戦を行い、スペインは降伏しました。

もう1つの合意点は、フィリピンの反体制派は米国の同盟国からは入城を許されないということでした。

戦闘の日には雨が激しく降っていました。アメリカ兵たちは戦いに備えて、静かに市の壁に向かって歩きました。

発砲が始まりましたが、アメリカ兵は一人も殺されませんでした。それから間も無くして風に吹かれているスペインの白旗を見ました。

1898年8月13日午後5時、スペイン総督は降伏文書に署名することに同意しました。

この戦いの中でフィリピン軍が占領されていたマニラに入ることを阻止されたことで、フィリピン人とアメリカ人の協力関係に終止符が打たれました。フィリピン人はこの戦いを深く恨んでいました。

フィリピン第一共和国の樹立 初代大統領エミリオ・アギナルド(1899年)

1899年1月23日、アジア初の民主憲法により、エミリオ・アギナルドを大統領とする 「フィリピン第一共和国」 が宣言されました。

1898年12月10日、スペインとアメリカは双方の戦争を終結させるパリ条約の条項作成のため、委員をパリに派遣しました。

フィリピン国内にはかなりの反対がありましたが、アメリカはフィリピンを併合することを決定しました。

フィリピンが数世紀にわたってすでにキリスト教の信奉者であったにもかかわらず、マッキンリー米大統領は、「神からの贈り物」、また「彼らは自治には不向きでした。私たちできることは、フィリピン人を教育し、彼らを向上させ、文明化し、キリスト教化することです。」と、併合を正当化しました。

フィリピン第一共和国はアメリカの占領に抵抗し、その結果、米比戦争(1899~1913年)が勃発しました。

アメリカ統治(1898年~1946年)

パリ条約調印後、マッキンリー大統領はフィリピンに対するアメリカの政策を公式に発表しました。

フィリピンはアメリカの植民地になりました。マッキンリー大統領はフィリピンの米軍司令官に、フィリピンにおけるアメリカの主権を武力で拡大するよう命じました。

マリット将軍の後を継いだエルウィル・オーティス将軍は、フィリピン国民の怒りを買うことを恐れて、マッキンリー大統領の声明文の全文を公表せず、国民の反感を買うことのないように声明文の文言を和らげました。

フィリピン人は当初、アメリカとの関係をスペインとの戦いのための仲間ととらえていました。しかし、その後アメリカはフィリピンの独立勢力から距離を置きました。

エミリオ・アギナルドは、アメリカがフィリピンの独立を支持する声明を発表しないことに不満を表明しました。そして、次第にアメリカとの関係が悪化し緊張が高まりました。

アメリカはアギナルドにマニラ周辺からの撤退を要求しました。そのため、アギナルドはアメリカ人にだまされたと確信しました。

アギナルドはアメリカ軍の将校に会って、紛争を解決する方法を話し合うよう命じて緊張を和らげようとしました。アメリカとの戦争が民衆に大きな苦しみをもたらすことを知っていたからです。

しかし、両委員会の会合は緊張を緩和するどころか、緊張を高め、悪化させました。

フィリピン・アメリカ戦争(米比戦争)(1899年2月4日)

アメリカとフィリピンの間の緊張が高まったことで、1つの事件が起きました。

1899年2月1日、アメリカ人技術者の一団がフィリピン軍に逮捕されました。オティス将軍は抗議しましたが、アギナルドは「アメリカ人は逮捕されたのではなく、フィリピン人の家にいたため単に拘留されただけ」だと答えました。

1899年2月4日、アメリカ人傭兵ウィリー・グレイソンがサン・フアン・デル・モンテ州のバルサハン橋でフィリピン兵を殺害したことをきっかけに、敵対行為が勃発しました。

これが、米比戦争の始まりです。

約12万人のアメリカ兵がこの戦争に従事しました。4,234人のアメリカ兵が死亡し、約2万人のフィリピン共和国軍兵士も死亡しました。

少なくとも8万から10万人のフィリピン共和国軍兵士が全国規模のゲリラ戦を行いました。

アメリカ軍と反政府勢力の間に挟まれた一般の人々は、大きな被害を受けました。

戦争の間接的な結果として、少なくとも20万人のフィリピン市民が命を落としましたが、その大部分はコレラでした。

装備が貧弱なフィリピン軍は正規戦では米軍に簡単に圧倒されましたが、ゲリラ戦では手ごわい相手でした。

革命的な首都マロロは1899年3月31日に占領されたが、アギナルドとその政府は逃亡し、ヌエバ・エシハのサン・イシドロに新首都を建設しました。

1899年6月5日、アギナルドの最も有能な軍事司令官アントニオ・ルナは、アギナルドに会うためにヌエバ・エシハのカバナツアンを訪問中にアギナルドの警備員によって暗殺されました。

米軍がルソン島北部に侵攻し最高司令官が死亡し、部隊が敗北を続けたため、アギナルドは11月13日に正規軍を解散し、複数の軍管区に分散型ゲリラ司令部の設置を命じました。

もう一人の重要な将軍グレゴリオ・デル・ピラールは、1899年12月2日にティラド・パスの戦いで殺されました。これは、アギナルドが山中を脱出したときに、アメリカ軍を遅らせるための後方警備行動でありました。

アギナルドは、1901年3月23日にイサベラのパラナンで拘束されました。

1901年4月1日にマニラに連行されましたが、さらなる抵抗の無益さを確信し、米国への忠誠を誓い、同胞に武器を放棄するよう呼びかける声明を発表し戦争は公式に終結しました。

アメリカ統治

4月19日の布告で、彼はフィリピンの人々にアメリカの主権を受け入れるよう訴えました。しかし、散発的な抵抗が1913年までフィリピンの各地、特に南部のイスラム教徒で続きました。

フィリピンのゲリラとアメリカ軍の間の一部の孤立した小競り合いを除いて、フィリピンには全般的な平和がありました。この状況は、アメリカ国民に、ワシントンDCの指導者たちが約束したことを実践する時間と機会を与えた。

アメリカは、フィリピン国民に賢明で公正な行政を提供すると約束しました。フィリピン国民に十分な自由を与えることも約束しました。言論の自由、報道の自由、教育の自由です。

また、アメリカの指導者たちはフィリピン人に独立のための準備として、自治政府で訓練を行うことを約束しました。

アメリカが樹立した政府は、フィリピン人の助けを借りてアメリカが運営していた政府でした。ほとんどの歴史家は、フィリピンにおけるアメリカの支配は2つの段階に分けられると言います。

第一段階は、1898年から1935年までです。この期間、アメリカ政府の指導者たちは植民地使節団を保護指導の一つとし、最終的な独立に向けてフィリピンを準備するものと定義しました。

彼らはフィリピンの人々を訓練し、政府に参加させました。多くのフィリピン人が官庁に雇われた。また、政治組織の発展も早く、公選されたフィリピン議会(下院)と米国が任命したフィリピン委員会(上院)が二院制議会としました。

イルストラドス(スペインとヨーロッパの大学に入学することができたスペイン・フィリピン人の啓発された階級)は連邦党を結成しますが、彼らの国家綱領は限定的なアピールでした。

1905年に国民党と改称し、独立綱領を制定しました。ナチオナリスタ党は1907年に結成され、第二次世界大戦後までフィリピンの政治を支配しました。

「即時独立」という綱領にもかかわらず、指導部は米国との協調的リーダーシップに参加しました。

第一次世界大戦後に現れた大きな発展は、社会党とフィリピン共産党の支援を受けた小作農による土地のエリート支配に対する抵抗でした。大恐慌が長期化し、換金作物の価格が暴落すると、ストライキや時折の暴動が起きました。

第二段階は、1936年-1946年です。フィリピン連邦の成立と第二次世界大戦中の日本による占領を特徴とし、連邦政府は独立への移行政府でした。

30年代前半のアメリカの大恐慌は、フィリピンの独立に向けた歩みを早めました。

フィリピンの安価な製品(主に砂糖)と労働力をアメリカから締め出すために、フィリピンの独立を支持する動きが見られました。

また、アメリカの政治家の中には、フィリピンを防衛するのは難しいと感じている人もいました。日本と戦争した場合、フィリピンは征服の対象となり、アメリカは何もできなくなる考えていたのです。

例えばセオドア・ルーズベルト大統領は、日本との戦争を避けるためには、アメリカはフィリピンに独立を与えなければならないと考えていました。

当時、日本は台頭しつつあり、中国とロシアを戦争で破っていました。その後、日本は朝鮮、満州、そして中国にも侵攻していました。

1933年、米国議会はハーバート・フーバー大統領の拒否権に対抗して、フィリピン独立法としての 「ヘア・ホーズ・カッティング法」 を可決しました。

この法案はフィリピンの委員会の援助を得て起草されたが、フィリピンのマヌエル・ケソン上院議長が反対しました。彼の影響で、フィリピン議会はその法案を否決しました。

翌年「タイディングズ・マクダフィー法」 として知られる改正法がついに可決されました。この法律は、フィリピン連邦が10年の期間を経て完全独立に移行することを定めていました。

連邦は独自の憲法を持ち、自治を行うが、外交政策は米国の責任であり、特定の法律は米国大統領の承認を必要とするというものです。同法は、独立の日を英連邦の設立十周年に続く7月4日と定めていました。

1934年7月30日、マニラで憲法会議が開催され、1935年2月8日、1935年フィリピン共和国憲法が177対1の賛成多数で同会議により承認されました。

1935年3月23日、フランクリン・ルーズベルト大統領により承認され、1935年5月14日に一般投票により批准されました。

第2代大統領 マヌエル・ケソン(1935年~1944年)

1935年9月17日、大統領選挙が行われました。

候補者には、前大統領エミリオ・アギナルド、独立派のイグレシア・フィリピナの指導者グレゴリオ・アグリペイなどがいました。

結果は、マヌエル・ケソンが大統領の座を獲得しました。

1935年11月15日の朝、マニラの国会議事堂前で行われた式典で、連邦政府が発足しました。そのイベントには約30万人の群衆が出席しました。

「タイディングス=マクドゥフィー法」 の下では、フィリピンの完全独立の日付は1946年7月4日と定められていました。

ここから、非常に波乱に満ちた11年が始まります。

1941年12月8日、日本の爆撃機がハワイの真珠湾を攻撃しました。

その真珠湾攻撃からわずか10時間後に日本はフィリピンを攻撃し、1942年1月2日にマニラを占領しました。

日本統治(1941年〜1945年)

マニラ侵攻

日本の海軍、陸軍、空軍がアメリカ、オランダ、イギリスに攻勢をしかけました。

1941年12月8日以降、日本軍はマニラやその近郊を含む多くの場所を爆撃しました。

破壊からマニラを救うため、アメリカのダグラス・マッカーサー将軍はマニラを開放都市と宣言しました。

「開放都市」 とは、防御をしないと宣言されている都市であり、国際法では敵の攻撃から免除されている都市を意味します。

しかし、日本軍はそれを尊重しませんでした。爆撃を続け、街は壊滅状態に陥りました。日本軍はルソン島の北部と南部に上陸し、1941年6月マニラへの上陸に成功しました。

年配のフィリピン人によると、日本軍はとても残酷だったと言います。マッカーサーとフィリピン人はアメリカに期待していた助けは来ませんでした。バターンでは食糧不足があり、兵士たちは飢えと病気に苦しみました。

マヌエル・ケソン大統領は、戦争が勃発したときには病気でした。バターンやその他の場所での爆撃の結果何千人ものフィリピン人が死亡したことを知っていたときには、ますますひどくなりました。

日本軍の侵攻からマヌエル・ケソン大統領を救うために、マッカーサーはケソン大統領と彼の家族がオズメナ副大統領とともにコレヒドールに行くことを提案しました。

アメリカのルーズベルト大統領は、バターンがまもなく陥落することを知っていたので、ケソン大統領をオーストラリアに移送するよう命じました。

同年3月には、マッカーサーにオーストラリアへの渡航を命じています。

ここで、有名な一文が残っています。「I Shall Return. (私は戻ってきます)」。さまざまな年齢のフィリピン人のほとんどがこの言葉を知っています。

飢えと病気だけでなく、日本軍の爆撃と大砲の砲火にも苦しんだバターンのアメリカ軍司令官は、1942年4月9日に降伏し、日本人はコレヒドールに全精力を注ぐことができました。

この小さな島は、ほとんど絶え間ない敵の爆撃に苦しみました。

1942年5月、ジョナサン将軍はフィリピンを日本軍に降伏しました。バターンで日本軍に捕らえられた8万人の捕虜のほとんどは、悪名高いバターン死の行進に参加させられ、105キロ北の捕虜収容所に送られました。

約1万人のフィリピン人と、1,200人のアメリカ人が目的地に着く前に死亡しました。

政府の再編

日本軍がマニラを占領した直後、本間正治総司令官は中央政府の再編を命じました。

内務、財政、司法、農商務、教育、保健福祉、公共事業、通信の6つの執行部門からなる中央行政機構に改称されました。

各部門にはいわゆる顧問が配置されました。実際のところ、顧問は日本軍のスパイや工作員で、各部門長の任命はすべて日本軍当局の承認を必要としました。州や市レベルでは何も変更されませんでした。

ゲリラ戦

当時、ほとんど例外なくフィリピン人は反日主義者でした。

バターンやコレヒドールで脱出に成功した兵士の多くは、ゲリラ組織に参加したり結成したりしていました。フィリピン全土で、ゲリラの服装がキノコのようにはびこっていた。愛国心が最高潮に達していた。

ゲリラは日本軍を攻撃し、待ち伏せし、殺害しました。彼らは3万人の武装メンバーがいました。

そのゲリラ効果は大きく、終戦までに日本軍が支配したのは48州のうち12州にすぎませんでした。

日本の教育政策


日本軍当局は、フィリピン人の心をつかむため日本の教育政策はフィリピン人の精神的な若返りに基づくものにするよう命じました。

フィリピン文化の伝播、日本語・日本文化の伝播、職業・初等教育奨励(労働意欲)を促進することです。

この政策を実施するために、日本軍当局は学校、特に農業、漁業、医学、工学の開校を命じました。フィリピン人に学校に行くよう奨励しようとしたにもかかわらず、多くの子どもたちが家や農場に残っていました。日本軍を怖がっていたからです。

第二共和国日本政府は、フィリピン人の信頼を得るためにフィリピンに独立を与えることを決定しましたが、本当の狙いは彼らがアメリカ人より優れていることをフィリピン人に示すことでした。

彼らは、短期間しか占領していなかったにもかかわらず、フィリピン人に独立を申し出ました。

第3代大統領 ホセ・P・ラウレル(1943年~1945年)

1943年9月25日、ホセ・P・ラウレルが大統領に選出されました。この大統領は傀儡政権と見なされました。

在任中のすべての決定は、日本の当局に支配されていました。

フィリピンは、インフレの激化や食糧・物資不足に苦しみました。日本軍は米などを買い占めたり、没収しました。マニラとその周辺で数千人のフィリピン人が飢饉で死亡しています。

セブ島侵攻

1942年1月2日、日本軍は空爆の後、マニラに侵攻をしました。

そして、1941年の12月から1942年の4月まで、セブの人々は、必死の準備の時間でした。確かに、この時期には早くも市民が荷物をまとめて地方に引っ越してきました。人々はセブ島における日本軍の侵攻を予想していました。

当時、セブ島にいた軍隊は、フィリピン陸軍、セブ憲兵連隊、フィリピン陸軍航空隊分遣隊、その他諸隊を含み6,500人の兵力を保持していました。

戦争準備のための最初の本部は、フォート・サン・ペドロにあり、その後コレジオ・デ・サン・カルロス (現在のサン・カルロス大学) に移転しました。

準備には、飛行場、戦車の障害物、塹壕、銃床の建設が含まれていました。これらの防衛に関する作業のほとんどは民間人によって行われました。

当時、セブ市の戦争準備はハワード・J・エドマンズ中佐が担当していました。連隊は、268人の大本営、5個中隊で構成されていました。

1942年4月から3月にかけて、多くの民間企業が、予備部品からライフル、弾薬運搬車、機関銃三脚、水筒、軍用パック、テント、ライフルスリング、靴など、軍事物資にどうしても必要な製造に従事しました。

これらの準備の中で、セブ州のアバレナ州知事とセブ市のホセ・ドルガド市長を筆頭に、地方政府は全面的な支援を行いました。

1942年4月10日未明、日本軍はタリサイ(セブ島南部)に上陸し、ほぼ同時刻にトレド(島の反対側)に上陸しました。日本軍は12,000人で構成され、そのうちの3,000人は訓練を受けていなかったといいます。

しかし、1942年4月19日、日本軍はセブの完全征服を宣言しました。

日本軍は残忍無慈悲であったと言われています。セブの各地で、民間人(見張りやボランティアの警備員)に対する虐殺が続きました。

一部の憲兵隊もまた、民間人には野蛮で非合法なものでした。

憲兵隊は、1881年から1945年までの大日本帝国陸軍の組織で、通常の憲兵隊と秘密警察隊の両方で構成されていました。日本占領地で、抗日容疑者を逮捕しました。

日本軍とともに朝鮮人徴集兵もおり、セブアノのジャーナリストの調査によると、この惨劇の主犯は日本人ではなく朝鮮人徴集兵であったという調査もあります。

実際、セブの南部で今日では白い海岸が有名な観光地となっているモアルボアルでは、第一陣の日本軍兵士はニワトリや卵などの食料を住民に求めるも親切であり、これらが与えられないときは静かに黙っていたと語りました。

ただ日本人は、セブの人から、特に第二次世界大戦中に生まれた人たちから残酷で無慈悲だと見られていました。

日本の敗北と戦争の終結

第4代大統領 セルヒオ・オスメニャ(1944年~1946年)

1944年、アメリカは日本への攻撃を開始しました。戦争の初期に日本人が占領した太平洋の島が次から次へとアメリカ人の手に落ちました。いくつかの海戦でアメリカ海軍が日本海軍を破りました。

ダグラス・マッカーサー司令官は、オーストラリア滞在中にフィリピンへの帰国を決定した。

彼はすべての海軍、陸軍、空軍にフィリピンへの攻撃を開始するよう命じました。マニラやその他の場所はアメリカの戦闘機によって爆撃されました。

1944年10月20日、米空軍と海軍はレイテ島を爆撃しました。史上最大の海戦とされるレイテ沖海戦です。

レイテが日本人によって解放された後、1945年2月27日、マッカーサーは政権をセルジオ・オスメニャ大統領に譲りました。

戦争の終結

アメリカ軍は引き続きフィリピンの他の地域に上陸し、連合軍はフィリピン連邦軍とともにマニラに向かいました。

しかし、1945年9月2日の日本の正式降伏まで戦闘が続き、終戦時には約1万人のアメリカ兵がフィリピンで行方不明となり、太平洋のどの国よりも多くのアメリカ兵が行方不明となりました。

フィリピンは特にマニラの戦いにおいて、多大な人命の損失と甚大な物的破壊を被りました。戦争末期には100万人と推定されるフィリピン人が殺害され、その多くはアメリカ軍による過剰な砲撃のためにマニラは大きな被害を受けました。

マッカーサーは、今度は日本本土への戦争遂行を提案しました。数百機の巨大爆撃機が、連日のように日本を爆撃しました。

ルーズベルトの死後、後を継いだトルーマン米大統領とチャーチル英首相は、日本に無条件降伏を求めました。当初、日本は降伏を拒否しました。

1945年8月、アメリカは広島と長崎に原爆を投下しました。壊滅に直面した日本軍は無条件降伏しました。

1945年9月2日、日本は東京湾の戦艦ミズーリ船上で降伏文章に署名しました。太平洋での戦争はついに終わりました。

フィリピンにとっては、この1945年9月2日が終戦の日なのです。

戦後と第三共和国

第降伏文書調印によって戦勝は終結しましたが、フィリピンは荒れ果てていました。

日本軍は激しく戦ったため農場、作業動物、建物、道路、橋などが破壊され、多くの命が失われました。日本からフィリピンが解放されて最初の数ヶ月は生産が行えず。失業が蔓延しました。食糧は乏しく、多くの人は病気で死亡しました。

戦後は、アメリカによって援助が行われます。フィリピン民政局(PCAU)を組織し、フィリピン人への緊急援助に当たりました。

第二次世界大戦はフィリピンの戦争ではなくアメリカの戦争でした。しかし、フィリピン人はアメリカ人よりもずっと苦しんでいたので、アメリカ政府はフィリピンに財政援助をすることに決めました。

フィリピンの独立

アメリカは1946年7月4日、予定通りフィリピンに対する主権を放棄しました。

フィリピンが300年以上にわたる植民地支配から独立し、独立国となる日が来たのです。この7月4日は、現在でも独立記念日としてフィリピンの祝日です。

アメリカ大統領ハリー・S・トルーマンによる独立宣言は、ポール・V・マクナット(フィリピンで最後の米国人委員)によって読まれました。

宣言の中でトルーマン大統領は、米国は撤退し、「現在フィリピンで、アメリカ合衆国によって存在し行使されている所有と監督、管轄、主権の制御のすべての権利を放棄する。」と述べ、同時にトルーマンは米国は「独立した自治国家としてのフィリピンの独立を認識している。」とも述べました。

しかし、実際のところ、これ以降もフィリピン経済は米国経済に大きく依存します。米国のポール・マクナット最高委員によると、米国のどの州よりも米国市場に依存していました。

その理由の1つが、フィリピン貿易法です。米国からの戦争復興補助金を受け取るための前提条件として可決されました。

1947年には、米軍がフィリピンにある基地を99年間使用できる軍事援助協定が締結されました。

第5代大統領 マヌエル・ロハス(1946年-1948年)

マヌエル・ロハスが大統領に就任した時、未だフィリピン経済は麻痺状態でした。

戦争中、多くの人々が殺され、街や都市が焼かました。多くの建物が破壊されたので、それらを再建しなければならず、多額のお金を使わなければなりませんでした。

多くの事業所や工場が閉鎖されたため、生産高が低く、失業率も高かったため、経済が混迷を極めます。

ロハスが行った政策は、アメリカ政府関係者から大きな影響を受けました。1946年から1948年まで、心臓発作で亡くなるまで務めました。

第6代大統領 エルピディオ・キリノ(1948年~1953年)

ロハス大統領が死去すると、エルピディオ・キリノ副大統領が大統領に昇格した。

1949年、彼は自ら大統領選に立候補し、ホセ・P・ローレルを破り、4年の任期を勝ち取りました。

まず、共産主義支持のフクバラハップゲリラ(フックス)の問題に直面します。

フクバラハップは、ルソン島中部の農民による反日組織で1942年に設立され、これらの農民は知識人に率いられていました。最高権力者は、ルイス・タルクでした。

実際、何度も日本軍との小競り合いに勝っており、事実上日本軍から独立した地域でした。

バターンとコレヒドールでフィリピンとアメリカ軍が降伏した後、バターンから多くの銃器を入手することに成功しました。これらは日本人に対して使われました。

1948年3月、違法結社であると認定され、政府軍とそのグループの間で激しい小競り合いが起こりました。

第7代大統領 ラモン・マグセイサイ(1953年~1957年)

ラモン・マグセイサイは庶民に人気が出ました。彼は庶民と握手し、年老いた女性や子供たちや貧しい人たちにキスし、木靴を履いて歩きました。今までの大統領とは違って、彼はボディーガードなしで街を歩きました。

1954年、ルイス・タルクを降伏させました。タルクは、「率直にマグサイサイ大統領の権威とフィリピン共和国の主権を認めた」と述べ、メンバーの士気は一気に低下しました。

1964年、タルクの後継者であるホク・チーフタン博士がマニラで拘束され、フクバラハップはほぼ壊滅しました。

残念なことに、マグサイセイ大統領は飛行機事故で1957年3月亡くなり、大統領は副大統領であったカルロス・P・ガルシアに引き継がれました。

第8代大統領 カルロス・P・ガルシア(1957~1961年)

カルロス・ポリスティコ・ガルシアは、教師、詩人、演説家、弁護士、公務員、政治経済学者、組織ゲリラ、連邦軍指導者でという肩書きでした。

マグサイサイの死後に大統領に就任し、同年11月の選挙で4年の任期に選ばれました。

「フィリピン初」のナショナリスト的なテーマを強調し、フィリピン国民には経済発展の機会を与えるべきだと主張しました。

それはフィリピン人たちが、フィリピンの主人公になるということを意味します。

これはガルシアが、フィリピンの商取引を支配してきた外国人の天国がフィリピンであることを知ったからです。

ガルシアは、アメリカによる大規模な軍事用地の留保の放棄交渉に成功しました。しかし政権が進むにつれ、腐敗問題で人気を失いました。

第9代大統領 ディオスダド・マカパガル(1961~1965年)

1961年11月14日に行われた大統領選挙で、ディオスダド・マカパガルがカルロス・P・ガルシア大統領とエマニュエル・ペレズ副大統領を破りました。

ガルシアが勝てなかった理由の一つは、彼が政権の間、物価上昇と汚職と腐敗の問題を解決できなかったからです。

マカパガル大統領は、失業問題と食料自給率の問題を解決すると約束しました。彼は、誠実さ、正直さ、質素な生活を模範とすると約束しました。

マカパガルは正直であったが、実際彼の近くの多くの人はそうではありませんでした。

土地改革法と7月4日から6月12日までの独立記念日の変更という二つの業績で彼は知られていましたが、マカパガルは非常に貧しい家庭の出身であり、農民の地位向上の必要性を認識していました。

その結果、彼は議会に農業改革法の承認を求めました。

その条項は、

1、貧しい農民の地位を向上させるために彼らを解放して、違法な利子のような悪質な慣行を排除すること
2、生産性を高めて小規模農民の所得を増加させること
3、貧しい農民を独立、自立、責任ある市民にしてフィリピン民主社会を強化すること

などです。

一方、フィリピンは1962年から6月12日に独立を祝い、7月4日は 「フィリピン・アメリカ友好日」 と 「共和国記念日」 に変更されました。しかし、現在のフィリピン人はこの日を祝いません。

第10代大統領 フェルディナンド・マルコス(1965~1986年)

1965年の選挙では、フェルディナンド・マルコス上院議員が、魅力的で知的な妻イメルダ・マルコスの助けを借りて当選しました。

すぐに、マルコスは政府の計画を発表しました。

これには、

1、食糧自給のための米の増産と作物の多様化
2、土地改革プログラムの実施
3、社会的、経済的、政治的基盤を更に強化する

が含まれました。

マルコスは政府の計画を実現するために懸命に働きましたが、多くの政治家は彼の計画を阻止しようとしました。

1969年、マルコスは再選に立候補し、再選されました。

妻のマルコスが、彼の難しい仕事を手伝いました。彼女は貧民や不幸な人々の苦しみを和らげるために、療養所や病院に経済的援助やその他の援助を与える運動を主導しました。市民運動や文化活動にも積極的でした。

彼女の努力によってフィリピン文化センターが建設されました。このセンターは、画家、作家、彫刻家などの芸術家にセンターの施設を提供することで、その価値を証明する機会を与えることを目的としていました。

高価な演劇やコンサート、バレエなどの文化的な公演が、知識人の間で庶民や貧困層にも見てもらえるよう、低価格で行われ続けています。

戒厳令

マルコスのフィリピンでの功績にもかかわらず、彼の政権の間、フィリピンの人々の意見は分かれていた。

彼は1972年から1981年まで戒厳令下で独裁者として統治したと言われています。また彼の政権は、腐敗、ぜいたく、残忍さで悪名高かったと言われています。

前述したように、1972年9月23日、マルコスはフィリピンを戒厳令下に置き、マルコスが権力を乱用し、さらに多くの資金を腐敗させるために戒厳令が敷かれたと考えている人が多いです。事実、多くの記事が明らかにしました。

妻のイメルダが高価な靴や宝石などの貴重品を収集するなど、ぜいたくな生活のために政府のお金を使ったと言う人もいます。

大規模な不正行為や政治的混乱、人権侵害があったとされることから、1986年2月に革命が起こり、彼は権力の座から退きました。

1985年後半、マルコスは突然の選挙を要求し、アキノはサルバドール・ローレル元上院議員を副大統領候補として大統領に立候補しました。

1986年2月7日に選挙が行われた後、マルコスと彼の共闘仲間であるアルトゥーロ・トレチノが勝者として宣言されました。

ただし、選挙違反の疑いがあり、後の大統領であるアキノのは大規模な市民的不服従行動を求めました。フィリピン国軍の離脱と地元カトリック階層の支援により、1986年2月25日、マルコス大統領を追放し、アキノ大統領の就任を保証する 「ピープル・パワー革命」 が起きました。

この革命がマルコスを国外追放に追い込み、1986年2月25日、コラソン・アキノを大統領に就任させました。

◾️フィリピンにおける戒厳令
フィリピンの戒厳令(フィリピン語:Batas Militar sa Pilipinas)は、フィリピンの国家元首(大統領)が、国民をフィリピン軍とその下部組織による支配下に置いた断続的な期間を指します。
戒厳令は、暴動に近い場合や大規模な自然災害の場合に発令されます。
戒厳令の発令には、外出禁止令、民法、公民権、人身保護令状の適用が伴います。戒厳令に背く民間人は軍法会議の対象となります。

マルコスのディコーションを終結させた人々のEDSA革命

1986年2月25日、いわゆる 「無血革命」 (EDSA People Power’s Revolution) が起きた時、フィリピンは世界から賞賛されました。

この日は、フィリピンの人々の心に刻まれた重要な日であります。EDSAが、暴力と流血を容認せずにデモを行い、革命を成し遂げたことは民主主義の真の力を示しています。

このデモが行われた場所は、エピファニオ・デ・ロス・サントス通り(EDSA)です。EDSAに集まった100万人とも言われる人々の力が、民主的なフィリピンを復活させ、マルコス政権を終わらせたのです。

毎年2月25日は、今でもフィリピンの祝日です。

第11代大統領 コラソン・コフアンコ・アキノ(1986~1992年)

革命後、コラソン・アキノは直ちに革命政権を樹立し、事態を正常化しました。彼女はフィリピン初の女性大統領となりました。

コラソン・アキノは、フェルディナンド・マルコス大統領の21年間の統治を終わらせた1986年の 「ピープル・パワー革命」 の最も著名な人物でした。

彼女は1986年にタイム誌の 「ウーマン・オブ・ザ・イヤー」 に選ばれましたが、それ以前は選挙事務所も持っていませんでした。

自称「専業主婦」の彼女は、マルコス大統領の最も厳しい批判者ベニグノ・アキノ・ジュニア上院議員と結婚しました。

1983年8月21日、米国への亡命を終えフィリピンに帰国した夫が暗殺された後、野党の指導者として浮上しました。

民主主義制度の再活性化と、市民の自由の尊重では進展が見られたが、アキノ政権は弱い政権とみなされました。

1991年のピナトゥボ山の噴火では、700人が死亡、20万人が家を失いました。

アキノ大統領時代、6回のクーデター未遂がありました。最も深刻なのは、1989年12月です。

フィリピン上院は1991年、米軍基地の10年延長を認める条約を否決しました。アメリカは、1992年12月にはザンバレスのスービック湾海軍基地を返還し、一世紀にわたるフィリピン駐留に終止符を打ちました。

第12代大統領 フィデル・ラモス(1992~1998年)

フィデル・ラモスは、フィリピン史上少尉から最高司令官まで100人の階級をフィリピン軍で保持した唯一の将校です。

彼の政権の最初の数年間(1992~1995年)は、好景気、技術開発、政治的安定、国民への基本的ニーズの効率的な提供を特徴としていました。この間、彼は党綱領を統治の概要と課題として提唱しました。

ラモスは、国際競争力の原則を着実に推進してきたことで知られています。

1993年、彼はフィリピンの家庭や産業を麻痺させた電力危機に終止符を打ちました。また、229の構造改革法によって、貧困と闘うためのプログラムを遂行し、集中させた。

フィリピン経済は、1993~1997年の間に劇的に回復しました。フィリピン人家族の平均収入は、彼の政権の間それ以前の20年間よりも大きくなりました。

公共インフラの近代化を含む、公的機関の民営化を奨励しました。また、反政府軍や分離独立派のモロ民族解放戦線との和平合意に達し、その功績で1997年にはユネスコ平和賞を受賞しました。これはアジア人としては初の受賞です。

引退後も2022年に96歳で亡くなるまで、フィリピン政界、軍、警察に大きな影響力を発揮しました。

第13代大統領 ジョセフ・エエルシト・エストラーダ(1998~2001年)

ラモス前大統領の副大統領を務めた映画俳優出身のエストラーダは、アジア金融危機の1998年に貧困層の救済と農業の発展を公約に掲げ、圧倒的な勝利で大統領に就任しました。

彼は特に貧しい人々の間で広く人気を博しました。

しかし、経済は1998年の0.6%と低成長率、1999年も3.4%と緩やかな成長率となりました。

2000年4月、ミンダナオにおける分離独立運動は悪化の一途をたどり、エストラーダ大統領はモロ・イスラム解放戦線に対して「全面戦争」を宣言しました。

フィリピンのミンダナオに拠点を置くモロ・イスラム解放戦線は、モロ民族の自治区をフィリピン政府に求めました。彼らはミンダナオ地域に独自の政府を持ちたかったのです。

2000年10月、エストラーダは違法賭博ビジネスから数百万ペソの利益を受け取ったとして告発されました。

彼は下院によって弾劾されましたが、上院での彼の弾劾裁判は、上院が大統領の銀行記録の調査を阻止することを投票したために、決裂しました。

これを受けて、エストラダの辞任を要求する大規模な抗議行動が起こった。第2のEDSA革命です。

街頭デモ、閣僚辞任、軍からの支援の撤回などを受けて、エストラーダは2001年1月20日に辞任を余儀なくされ、追放後にはいくつかの容疑や訴訟が提起されました。

その後、長い裁判の末、彼は略奪の罪で有罪となり刑務所に送られましたが、数年後に刑務所に釈放されマニラ市長にまでなりました。

エストラーダの子どもたちと親戚たちは、今もフィリピン政治で活発に活動しています。しかし、2019年の選挙では、ジョセフ・エストラーダ自身を含め、その多くが落選しました。

第14代大統領 グロリア・マカパガル・アロヨ(2001~2010年)

グロリア・マカパガル・アロヨは、ディオスダド・マカパガル大統領の娘です。

彼女は1947年4月5日に生まれましたが、汚職で告発されたエストラーダは社会福祉開発大臣を辞任し、高まる大統領への反発に加わりました。

2001年、第2のEDSA革命によってエストラーダは間もなく退任を余儀なくされ、アロヨは1月20日に大統領に就任しました。

物議を醸した2004年のフィリピン大統領選挙では、 「ハロー・ガルシ」 事件による選挙不正が目立ちました。彼女は再選のために選挙結果をごまかしたと考えられています。

史上最も不人気な大統領

もう一つの問題は、2007年汚職スキャンダルに政権が巻き込まれたことです。

2001年大統領就任当初の満足度は+24でありましたが、2009年第一四半期には−32となり、フィリピン史上最も不人気な大統領の一人となりました。

これはフィリピンの人々が、彼女をあまり信用していなかったことを意味します。

2011年11月18日、アロヨは選挙違反で起訴され逮捕されました。彼女はケソン市の退役軍人記念医療センターで選挙妨害の容疑で拘束されましたが、2012年7月に保釈され、2012年10月に再逮捕されました。

彼女は、医師から「生命を脅かす健康状態」と診断を受け、病院で逮捕さました。

2016年7月19日、アロヨは友好関係にあるロドリゴ・ドゥテルテ政権下で、最高裁で11対4で無罪となりました。また、最高裁は司法省の出国禁止命令を違憲としました。

その後、弁護団はもはや医療措置は必要ないと述べ、アロヨを退院させました。

2018年7月23日、アロヨは地元選挙区を通じて下院議員に選出されました。アロヨの子どもたちも、現在もフィリピン政界で活躍しています。

第15代大統領 ベニグノ・シメオン・アキノⅢ(2010~2016年)

アキノ大統領の息子であるベニグノ・アキノ三世は、2010年6月30日に大統領に就任しました。

政治の透明性の向上、貧困の削減、汚職の削減、工業による経済のの活性化などの主要な改革に焦点を当てると主張しました。

しかし、今となっては多くの評論家は、アキノ大統領は改革と公約を実行できなかったと言います。

アキノ政権は、2010年8月23日のマニラでのバスジャック人質事件をきっかけに、一時はマニラと香港の関係が緊迫した中で、政権発足以来、スキャンダルと奇形を中心にさまざまな成功を収めた。

◾️2010年8月 マニラのバスジャック人質事件
犯人は、フィリピンの元国家警察官ロランド・メンドーサ。マニラのホセ・リサル・パークで観光バスを乗っ取っりました。バスには観光客20人、香港からのツアーガイド、地元フィリピン人4人の計25人が乗っていました。
メンドーサ容疑者は、恐喝や麻薬取引の容疑で不当に解雇されたと主張し、警察官への復職を要求。最終的には警官隊がバスに突入し、メンドーサ容疑者は死亡、人質8人も死亡しました。
この事件をきっかけに、フィリピンと香港の関係は悪化。香港で働くフィリピン人労働者の多くは、香港人の報復のようなものとして嫌がらせを受けました。また、香港公安省は香港市民にフィリピンへの渡航自粛を要請しました。

大統領在任中のもう一つの問題は、アキノ大統領が、2015年のママサパノ事件につながった失敗した作戦で44人の特殊活動部隊隊員を殺害した責任を回避したとして非難されたことでした。

ママサパノ衝突は、世界で最も手配されているテロリストの一人、ズルキフリ・ビン・イール (マルワン) を逮捕するための作戦中に発生した事件で、アメリカはこのテロリストのリーダーを逮捕するために多額の資金を提供していました。アキノ政権がこの資金目当てだという話がたくさん出たのです。

この作戦は、他国との協力関係の欠如から失敗となり、最終的には精鋭警察官44人が死亡しました。

また、2013年11月の台風ヨランダについて、被災者を援助するための政府の「遅い」対応についても批判されました。

◾️2013年11月 台風ヨランダ
フィリピン中部のサマール島に上陸した巨大台風。上陸時の中心気圧は895ヘクトパスカル、最大瞬間風速毎秒100m以上。上陸したものでは、世界で観測史上の最も強い台風。フィリピンの人口の1割が被災し、6,000人以上の死者を出しました。

腐敗ゼロを目指す

アキノ大統領の任期中にいくつかの有名な業績もありました。

政府の腐敗ゼロへの道のりを示したことです。これが元大統領グロリア・アロヨの逮捕につながりました。

教育の世界水準化

アキノ政権のもう一つの有名な功績は、教育の世界水準に近づくことを決めたことです。K-12プログラムです。

これ以前は高校卒業のフィリピン人が海外の大学に留学しようとする時、国際的には高卒と認められなかったのです。また、大卒のフィリピン人が海外で就職する時、大卒と認められないこともあったのです。

ただし、多くの批判にも直面しています。学校に通う期間を延ばしたということは、親たちは子どもたちの教育にもっとお金を使わないといけなくなります。そのため、庶民は負担が増えただけだという人もいます。

▪️K-12プログラム
K(幼稚園1年)と12(初等教育6年-前期中等教育4年-後期中等教育2年)の13年間を基礎教育期間とし、幼稚園も含めた13年間を義務教育とする制度。2012年から段階的に始まりました。それ以前のフィリピンでは、6-4制(初等教育6年-中等教育4年)で10年間が基礎教育で、うち義務教育は初等教育期間の6年間でした。

違法薬物の急増

違法薬物、いわゆるシャブの問題は、彼の投与中に高まりました。もちろん彼が政権を握る前から、違法薬物は存在していました。

麻薬組織が保護されているのは、下級から上級まで多くの警察官がかかわっているからです。当時、麻薬の売人はいたるところにいて、シャブやその他の麻薬がまるで市場かのように色々なところで売られていました。

シャブは100ペソ、つまり220円で買えたのです。マリファナは1本5ペソで、タバコ1本分に相当します。

当時は、違法薬物が横行し、麻薬中毒者が溢れていました。威厳のある政治家を除いて、多くの政治家がマフィアから金を受け取ったのです。

第16代大統領 ロドリゴ・ロア・ドゥテルテ(2016~2022年)

2016年の大統領選挙で、ロドリゴ・ドゥテルテは多くのフィリピン人の支持を得て、アキノ三世の後任として第16代大統領となりました。

もともとドゥテルテは、フィリピン南部ミンダナオ島ダバオ市の市長を20年以上務めていました。

彼がフィリピン国民に約束した最も大きな改革は、フィリピンにおける違法薬物の全面的な撤廃です。

ミンダナオ島での武力紛争の間、ムート・グループという名のテロリスト集団がマラウィを占領した時、ドゥテルテはミンダナオ全域で戒厳令を宣言しました。その後2019年まで年間延長されました。

ローマ・カトリック教会との関係

ドゥテルテはまたユーモアがあり、非常に率直な人物としても知られています。

彼は聖職者から性的虐待を受けたという経歴のためローマカトリック教会との関係が悪く、キリスト教とその神の側面を繰り返し批判したり侮辱したりしてきました。

フィリピンのローマカトリック教会は、彼がまだダバオ市長だったときから彼の人権侵害を批判しています。

麻薬との戦い

彼が政権を握ると、多くの麻薬関係者が逮捕され、殺害されました。

フィリピンでの犯罪の根本原因が明らかに麻薬であるため、フィリピンの人々は非常に彼の政策に満足しています。ドゥテルテはフィリピンで史上初めて違法な麻薬を撲滅する勇気のある大統領で、富裕層のフィリピンの実業家や有力政治家からも支持されています。

しかしドゥテルテ大統領は、カトリック教会の指導者、人権委員、国連から多くの批判に直面しており、超法規的殺害の罪に問われています。ジャーナリストたちは、1,000件以上の超法規的殺害はドゥテルテに責任があると述べています。しかし彼はそのような主張を否定するどころか、受け入れたのです。

例えば殺害を実行したデス・スクワッドは、当局の制裁をほのめかす免責を受けたまま活動し、ドゥテルテは彼らの手法とその明白な結果を公然と称賛しました。

中国との友好関係

外交で言えば、歴代大統領とは異なり米国の関係を見直し、中国との友好関係を築きました。

新型コロナウイルスとの闘い

2020年になってからは、新型コロナウイルスの対応に追われました。

2020年3月、まずはマニラ首都圏で陸海空全ての出入りを制限し、いわゆるロックダウン措置を始めました。

セブや他の市にも波及し、ほぼ全土でロックダウンが始まりました。この間ほぼ全ての人は外出は禁止、2020年後半から徐々に解除されたものの、学校に至っては2年近く生徒が登校できない状況が続きました。

第17代大統領 ボンボン・マルコス(2022年~現在)

第10代 フェルディナンド・マルコスの長男

ボンボン・マルコス(フェルディナンド・ロムアルデス・マルコス・ジュニア)は、第10代 フェルディナンド・マルコスの長男です。

2016年には副大統領候補として立候補したものの、落選。6年間選挙活動を続け、2022年圧倒的な得票差で大統領に就任しました。

アメリカとの外交関係見直し

前ドゥテルテ政権ではアメリカとの外交関係は悪化し、ドゥテルテ大統領は一度もアメリカに訪問することなく6年間の任期を終えました。

ボンボン・マルコスは、アメリカとの外交・軍事関係を見直しており、中国とのいわゆる領土問題にも前政権より毅然とした対応をとっています。

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この記事を書いた人

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